聖書黙想“3分の奇跡” 2020年7月22日水曜日

🍬2020年7月22日"3分の奇跡"
(一日三分の御言葉黙想を通してあなたの人生に奇跡を体験してください!)

 

4代に続く信仰を立てあげる聖書暗唱の72聖句
E1.キリストに似る:愛1

 

[ヨハネ13:34-35]
あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。

 

タイトル:賢い信仰生活_愛せない人を愛すること

 

世の中には本当に多様な人がいます。その中で私と利害関係がある人々と人間関係はうまくしておられますか?
我々は、親しく過ごしていても一言のミスで仇になったり、傷ついたりして、これ以上見なくて憎しみを持って生きている人もいます。
皆さんはこんな時どうしますか?

 

聖書はどんな知恵を与えてくださるのでしょうか。
賢い信仰生活の秘法… 不便な人ともうまく過ごす秘法、人間関係がうまくいく秘法を黙想します。
https://youtu.be/_kuiE9Szukw

 

❤A執事さんに実際あった話しです。
Aさんはある日、職場の飲み会で何度も勧める酒を断り、酔って怒った上司に頬を打たれました。
妻子がいて、年もある人がみんなの前で頬を打たれたから… A執事はとても重苦しく悔しかったです。

 

彼は家に帰って、数日間会社を無断欠勤して怒りを抑え、結局会社を辞めることを決心し、辞表を出す前に山に登って祈りを捧げました。
頬を殴られた悲しみとともに、これまで職場で一生懸命働いた代価がたったこれだという考えに絶望し、一方でいざ職場を辞めようとしたら、これからどう生きるべきか途方に暮れて神様に切に訴えました。

 

ところが、祈りの途中、意外な御声を聞きました。
“君は頬を1発殴られたことでそんなに悔しがっているのか?私はみんなから蔑まれ苦難を受け、君のために十字架を背負ったんだ。”
唾に吐かれ、呪いと悪口、肌が割かれる鞭で打たれながら、何のプライドも、血気も、言い訳もなしに黙々とあなたの十字架を背負ってゴルゴダの道を登って行かれたイエス様...
手と足に釘に打たれ、嘲弄していた連中を呪わず、むしろ苦痛の十字架の上でも彼らの罪を許してくださいと語ったイエス様の声が聞こえました。
ほっぺたを一発殴られたことで、どうして苦難だと悔しがって、職場まで辞めようとしたのか。私がどうしてその人一人のために親しくなって愛する職場を辞めなければならないのか。
A 執事はその不思議な御声にキリストの苦難を深く思い、自分のプライドを捨てて涙で悔い改めました。

 

それから山を下りて次の日に職場を出勤しました。
ところが、会社では無断欠勤した数日間、驚くべきことが起きていました。
彼のほっぺたを叩いた上司が、とても困った目に会い、懲戒される危機に陥ったのです。その上、その上司が会社で処理していた様々なことが問題になりました。
Aさんは自分の頬を殴った上司をかばいながら、彼を助けるために力を尽くしました。

 

被害当事者であるA執事が積極的に乗り出してその方を助けると、結局会社から下そうとした懲戒もうまく解決されました。
お酒を飲まないからと、酔った勢いで頬を殴ったその上司は、A執事の"理解できない"寛容と愛に感動し、福音を受け入れ、クリスチャンになりました。

 

彼は現在職場宣教会のある支部のリーダーになって熱心に他の人々に福音を伝える伝道者になりました。
A 執事が自分の頬を殴ったその上司を許し、助けまでしたのはどこから出てきた力でしょうか。

 

イエス様の十字架の愛に深く気づいたからです。
イエス様は弟子たちの足を洗った後、弟子たちに新しい戒めを与えて下さいました。
“あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。”ヨハネ福音13章34、35節の御言葉です。

 

この世にイエスの愛を受けなくてもいいほど完全な人はいません。そしてこの世の中に一人で十分に生きていけるほど完璧な人もいません。
私たちは神様からあまりにも多くの愛を受けたからその受けた愛を他の人と分かち合い、愛し合うと私たちは本当に幸せと真の喜びを受けるようになります。

 

[第一コリント13:4~7]
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のしたあくを思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

 

この御言葉は、信じる人も信じない人も、あまりにもよく知っている聖書の御言葉です。しかし、よくわかっているからといって、よく実践しているわけではありません。

 

パウロは愛のテクニックを15種類で説明しました。その中で「愛は寛容であり」、「すべてをがまんし」、「すべてを耐え忍びます」は似た意味ですが、最初と最後が忍耐です。

 

神様の子供としての人柄を持つためには、これまで到底容認できなかった人々さえも、許し、寛容して受け入れることができなければなりません。
私たちは、神様を愛していると告白し、礼拝を捧げて賛美しながらも、自分の意見と考えと価値観が異なる人々を容認できず、憎み、憤り、顔を背けることが多いです。
特に私にひどいことを言った人、私を無視して私の人格を冒涜した人、私に損害を与えて裏切った人、私を精神的に苦しめて痛い傷を与えた人…。こんな人まで愛するのは本当に易しくないです。

 

世の中の人々のように、会うことをやめてしまうならばそれで十分です。しかし、聖書はそのような人さえも忍耐強く愛しなさいと言われます。
愛はロマンチックで美しいですが、うまくいくためには長い間寛容な心で耐え忍ばなければなりません。
私たちはなぜ我慢しなければならないのでしょうか?

 

その人を愛の対象として私と関係を結んでくださった方がまさに神様であるからです。
神様がまさにその人を私のそばに置きました。その人を心から愛するように私を訓練させて待ってくださって耐えてくださって私をもっと愛してくださっています。

私たちは神様の愛をあまりにもたくさん受けたからこそ私たちは耐えることができます。
愛は名詞ではなく、長く耐えられるという動詞です。
しかし、サタンは今日も我慢して耐えることができないようにして、その人を愛せないように憎い感情が育つようにさせます。

 

我々が全てを我慢して覆ってあげるのは、相手が過ちを犯さないからではなく、相手の過ちに支配されず、その人が正しく立つように手助けし、祈りを捧げるためです。
目に見えない神様を愛していると言いながら、目に見える兄弟を愛せなければ、その愛は嘘です。
愛は暖かい言葉と心だけでなく、ポケットの中の私のお金を分け合わなければならず、忙しい私の時間を分けてあげなければなりません。
惜しみなく与える愛をする時、塞がった壁が崩れてこじれた誤解が解けます。

 

私たち皆が愛を表現し合い、愛の姿で忍耐し、愛を実践する世の光のようなクリスチャンになることを祈ります。

 

♣愛の根源である父なる神様、愛は寛容で耐え忍ぶ動詞であることをもう一度悟らせてくださってありがとうございます。

神様の愛の中に留まり、すべてを抱き、惜しみなく与える愛の力を与えてくださって私の人生の中で愛の実が豊かに実るように導いてください。

私の心の中にある憎しみと偏見を振り払い、忍耐と寛容と思いやりの心で他人を愛するようにし、多様性を尊重してその人の弱さと過ちに対して非難するより理解し、愛し、祈るように導いて下さい。

 

イエス様の御名で祈ります。アーメン。