聖書黙想“3分の奇跡” 2020年7月1日水曜日

👣2020年7月01日 "3分の奇跡"
(一日三分間の御言葉黙想を通してあなたの人生に奇跡を体験してください!)

 

4代に続く信仰を立てあげる聖書の暗唱72聖句
D7. キリスト弟子の資格:他人に仕える1

 

タイトル:真の仕えとは

 

[マルコ10:45]
人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人たちのための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

 

☘イエス様は王の王なるお方ですが、仕えられるためではなく、命を捨てるまでにして仕える者として来られました。

 

果たして、私がトップの座にいながらも、仕えることを喜びで自発的にできるのですか?

 

仕えられたくて高い地位にあがろうと頑張っていませんか?

 

本当の仕えとはどんなものなのか、ワシントンの母のお話です。

https://youtu.be/weYnANfzgJ8

 

❤1789年ワシントンがアメリカの初代大統領になった後のことです。

 

彼は、母の料理の腕前を閣僚たちに見せるために、土曜日の午後、実家に帰りました。
家に到着した大統領と閣僚たちを迎えた母は、料理を作るためにエプロンをかけていました。
閣僚たちは実は大変申し訳なく思っていました。大統領の母親に大変なことをさせたと思ったからです。

 

そしてある閣僚は大統領に建議しました。

「閣下、大統領の母はこの国の母です。安らかに過ごして尊敬されるべき方が厨房で雑用をしている姿を見ると私どもが恐れ入ります。他の人達に働かせて、お母さんは休むようにしたほうがいいでしょう。」

 

大統領もその言葉に一理あると思い、母と向き合った席で言いました。

「お母さん、お母さんはもう昔と違います。この国の大統領の母親です。 品位を守り、厨房の仕事などは直接やらない方がいいです。」

 

その時、お母さまは、こう答えました。

「息子よ、私は大統領の命令に逆らうとしても、神様の命令に逆らうことはできない」 「私は大統領の母親である以前に、神様の子供であり、神様が働けと言ったからこそ、働ける能力がある限り、私は働くつもりだよ。
また、私は天国で神様の前に立つべきキリストの僕だからキリストの担い手として仕えることをあきらめることはできない。仕えることは私の喜びであり幸せだよ。」

 

大統領はお母さんの言葉に大きい感動を受けて言いました。

 

「お母さん、お母さんは本当に偉大です。尊敬して愛しています。」

 

[箴言29:23]
人の高ぶりはその人を低くし、心の低い人は誉れをつかむ。

 

私たちは昔の職責と華やかな受賞歴とスペックを誇り、認められたがっています。年を取れば取るほど、地位が高くなるほど、職責と階級が上がるほど、もっと仕えられ、もてなされることを望みます。

 

しかし、真の指導力は、正しい神様との関係から始まり、真の権威は「仕えること」から生まれます。

 

米国の救世軍の初の監督官だったブレングルは、霊的な権威とリーダーシップの道をこのように説明しました。

「リーダーシップとは、昇進によって得られるものではなく、多くの祈りと涙で得られるものだ。」

 

イエス様は王の王である神様の御子ですが、馬小屋から生まれており、よいものが出ないといわれたナザレで成長し、私たちの罪の代わりにゴルゴダで十字架にかけられて死なれました。

 

イエス様が最も低く卑しい地位で罪人である私たちのために仕えたように、私たちも身分や地位を越えて神様が願うことをすることが私たちの召命であり使命です。

 

我々には、誰もが、大きくなりたくてトップになろうとする本能があります。イエス様は、その本能自体を否定したのではなく、えらい人になる方法、人の先にたつ方法を覆しました。

 

世の人々は地位が与えられると上に立ってその権勢を利用して自慢しますが、聖書はマルコの福音書10章43節、44節でこのように語ってます。


“しかし、あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間でひとの先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。”

 

仕える者がえらい者であり、僕になることこそ人の先にたつ者になるということです。

 

イエス様は十字架で亡くなる前、ユダが神様を売り渡すことをご存知で、ペテロがイエス様を知らないと3度否定することもご存知で、弟子たちがイエス様を捨てて逃げることをもご存知でおられましたが、すべての弟子たちの足を洗いながら仕えの模範を直接見せてくださいました。

 

イエス様はなぜ最も汚い足を洗ったのでしょう?

 

足は人間の体の中でもっとも低いところにあって、一生の間体を支え、いつも臭い靴の中に顔を隠しています。

イエス様は私たちの足のように低いところに来て、私たちのすべての咎を担われました。


おそらくイエス様は、愛する弟子たちの足を洗いながら、このようなことをおっしゃったのでしょう。

「足よ、私は低いところにいる君のほうがもっと大事なんだよ。低いところで無言で奉仕する君がありがたいな。足よ、私も足になったよ。人類の重い荷物を一人で背負って、すべての人々を高めて生かすためにあなたのように低くなったんだ。私は踏まれるが、私の踏まれることを通してすべての者が生きれば喜んで踏まれることを選ぶよ。」

 

イエス様の生涯は仕えの一生で、その最後の十字架での死は仕えの絶頂でした。
イエス様は、指導者は権威にあるのではなく、仕えにあることを。そして、指導者の権威は頭にあるのではなく、足にあることを悟らせていただきました。

 

イエス様の愛は仕える愛でした。この世の中で一番美しい愛とは、仕える愛であり、神様が自ら見せてくださった愛です。

 

主のように私が先に仕えて、愛する時、神様が喜んで勝利するように導いてくださいます。

 

[マタイ20:27]
あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。

 

[ルカ14:11]
なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。

 

真の仕えは、仕えることそのものが最大の報いです。仕える以外に他のものを報いとして要求いたしません。

本当に仕えてみると、仕えること自体が尊く喜びで感謝することになります。

 

私の権利を放棄しなければお互いに仕えることができません。自分の好みに合う人にだけ仕えるのではなく、聖霊の助けの中で、より多くの人に仕える機会を作らなければなりません。

 

私たちに任された人々をイエス様の心で愛し、謙遜に仕えることで本当に勝利する人生を生きられますようにお祈りします。

 

♣仕えの道を自ら私たちに見せてくださった父なる神様、謙遜で仕える時イエス様のまことの弟子になることを改めて悟らせていただいて感謝します。

いつどこでどんなことをしてもただ主の御名だけ高くし、名もなく顔のないように仕えるようにして下さい。

最も低い姿勢で足を洗う真の仕えを通して、私と共同体が愛で回復し、仕える使命をしっかり担っていけますように。

 

イエス様の名前で祈ります。アーメン。