聖書黙想“3分の奇跡” 2020年5月20日水曜日

😊2020年5月20日"3分の奇跡"
(一日3分間の御言葉黙想を通してあなたの人生に奇跡を体験してください!)

 

4代に続く信仰を立て上げる聖書の暗唱聖句72

 

C7. 神様により頼む: 平安1

 

[イザヤ26:3]
志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。

 

タイトル:神様が与える平安は違いますか。

 

ある先生が受験勉強で疲れた高校生に願い事は何かと尋ねると、学生はこう答えました。
"私の願いは朝ごはんを食べて寝て、昼ごはんを食べて寝て、晩ごはんを食べて寝ることです。"
すると、先生はこう言いました。
"こいつ、三日間だけそのように寝てみろ。捻じ曲げられて勉強がしたくなるだろう。"

 

皆さんの願いは何ですか?


コロナの事態で多くの人々が社会的距離を置くことで外出と集まり、旅行を自粛しながら息苦しさと退屈さ、不安感で憂鬱な時間を過ごしており、平凡な日常がどれほど感謝であるかを感じました。

 

"よく食べて豊かに暮らすことは、人間の基本的な欲求であり、本当に重要なことですが、そのように暮らしてるからといって、幸せだとは限りません。

 

安らぎが悪いわけではありませんが、それが私たちを幸せにするわけではありません。

 

神様が与える平安は世が与える平安とどのように違うのでしょうか。

 

ある執事さんの話しをお聞かせします。
https: // youtu.be/fX53r_FCnh0

 

🖤悪霊3兄弟が集まって、信仰の良い金執事をどうすれば試みに落とせるかについて熱のこもった討論を繰り広げました。
このまま放っておくとイエスの弟子として力強い者となるに違いないので、事前に芽を摘もうと声を高めました。

 

ついに一番目の兄貴分が行動を開始しました。
財政の流れを食い止め、経済的に困らせ、子供たちを揺さぶって問題児にならせました。
ところが、気が抜けるどころか、金執事は今まで参加していなかった、夜明けの祈り会に出席するようになりました。そして涙を持って叫びながら神様にもっと祈るようになりました。

 

二番目の悪霊が兄貴の悪霊をあざ笑いながら出動しました。
今度は不信者の夫を通じて迫害しました。教会に行ったらお金でも稼げるようになるのかと怒り、教会に行けないようにしたり、家にある聖書を全部持って捨ててしまいました。
涙を流す金執事を見て、次男は意気揚々としました。
しかし、これはどうしたことでしょうか。なんと金執事は夫が職場に出かけて家にいない間、スモールグループの礼拝に出かけ、信仰の同僚たちと強力なとりなしお祈りをし、奥まった部屋に入って涙で賛美しながら礼拝し始めました。

 

毎日神様に叫ぶ祈りによって、金執事はむしろ神様との関係がもっと親しくなりました。

 

次は末っ子の悪霊の番が来ました。

 

末っ子は顔に笑みを浮かべて金執事に財政の祝福を夕立のように注ぎました。
夫の心に愛の火を点けました。いい家、いい車、いい子、またお金を稼ぐ旦那…
町のおばさんたちと信者たちから羨ましがられました。
ところが、この事により主が一番で教会が一番だった金執事に妙な変化が生じ始めました。

 

"牧師先生。今週は夫がヨーロッパ旅行に行こうと言っています。2週間くらいだけ礼拝を抜けますね。"
"奉仕する時間がないですね。忙しいので人を買って使えばいいでしょう。必要なお金は私が全部負担しますよ。"
"祈る時間が本当にありません。もう祈らなくても、私の都合をご存知でおられる神様が祝福を 注いでくださるようです。"
礼拝も、奉仕も、お祈りも、彼女の中から枯れていきました。

 

今まで叫びながら祈っていた祈りの題目が答えられ、問題が解決されると、彼女は感謝するどころか自分の能力のお陰だと考え、これ以上神様を探し求めなくなりました。

 

お祈りのタイトルがないのが祝福でしょうか。お祈りのタイトルを握って神様に叫んで神様と毎日夜明けの祈り会で会うのが祝福でしょうか?

 

皆さんはどんな人生をお望みですか?

 

[詩編73:27~28]
それゆえ、見よ。あなたから遠く離れている者は滅びます。あなたはあなたに不誠実な者をみな滅ぼされます。しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。

 

私たちはイエス様をよく信じて楽に暮すことが祝福である人生だと思っています。しかし、楽に生きるのと恵まれて生きるということは、同じ意味ではありません。

 

世が与える平安、豊かな財政や心配悩みのない安らぎはとても感謝で幸せなことだが、もしこれらの祝福が神様と私の間の距離を遠くさせてしまうならば、また祈らなくて大丈夫だと考えるようになるならば、
それは真の祝福ではなく、サタンの誘惑であり、試みである可能性があります。

 

過度の安らぎは、むしろ死のように苦しい倦怠と無力感を与え、人生の価値と生き甲斐を失い、うつ病と自己憐憫に陥ります。

 

神様は平安の神様です。ヘブライ語で平安を意味する言葉はシャローム(shalom)です。
シャロームが意味する平安は、物質的な満足感、力で世界を平定することを意味するのではなく、内面的であり精神的なものです。
シャロームは神様から来る全面的な祝福であり、貴い贈り物です。

 

ユダヤ人は元気な者や成功した者はもちろん、病んだ者や失敗した者、去っていく友達や、生まれる赤ん坊にも"シャロム·ラーケム"、すなわち"平安がありますように“という挨拶を交わすそうです。
ある方は"平安とは戦いがないのではなく、魂から湧き出る喜びを言うものだ。"と言いました。
イエス様は復活された後、恐怖におののいている弟子たちに現れ、まず"平安があなたがたにあるように"と言われました。

 

人間にとって最も大きな不幸は恐怖と恐れです。コロナで全世界は死に対する恐怖と人による伝染の恐れですべてを遮断しました。
弱い私たちに必要なのは、内面的、精神的な平安です。

 

[イザヤ26:3]
志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。

 

"志の堅固な者"は、神様だけを硬く掴み、より頼む心を持つ人を意味します。

 

聖書は神様を信じて従う人に全き平安を与えると語りました。神様は自分を信頼して、心の一途な者に全き平安を与え、彼らを守ります。

 

末期がん患者として厳しい人生を送った故ユ·ソクギョン伝道師は、幸せについてこう語りました。

 

"初めて会った人に私ががん患者であると告白すれば冗談を言っているのかと思われます。それほど私は幸せで嬉しいのです。なぜなら私は神様の目的通りに生きようとするからです。
私の病気が治ることを目標に生きていたら不幸だったはずです。しかし私は状況が私の幸せを左右することができないということを固く信じます。状況が厳しければ不幸で、状況が良ければ幸せだという考えは大きな錯覚です。完璧な状況の中でも不幸な人はいくらでもいます"。

 

そうです。私たちは持っているものがなくても、夫が苦しめても息子が困らせても、また、肉体の苦痛が激しくても、幸せになることができます。なぜなら、イエス·キリストがおられるからです。私たちはイエス様お一人だけで十分幸せです。

 

[ハバクク3:17~18]
そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。

 

自分の願うままに生きる時、幸せが来るのではなく、私をこの地に存在させた神様の御心を考え、その通りに生きようと努力する時、それが本当に"よく"生きる人であり、幸せな人生を生きる人となるのです。

 

皆さんも主により頼んで、主の中で"シャローム·ラケム"を叫びながら、平安の神様と共に世が与える事のできないまことの平安を受けられますように祈ります。

 

♣平安を与えてくださる父なる神様、神様の御言葉の中で注いでくださる驚くべき力によって、私たちを平安が溢れる幸せな人生としてください。

 

心配、不安、恐れをイエス·キリストの名のもとにすべて払い落とし、祈りと願いを通じて、喜びと感謝で私の考えと心を守ってくださり、世が与える事のできない喜びと真の平安を受けられますように。

 

イエス様の御名でお祈り捧げます。 アーメン。