聖書黙想“3分の奇跡” 2020年6月10日水曜日

🥤2020年6月10日"3分の奇跡"
(1日3分の御言葉黙想を通してあなたの人生に奇跡を体験してください!)

 

4代に続く信仰を立てあげる聖書の暗唱聖句72

 

D1.キリストの弟子の資格とキリストをはじめの場所に置く1

 

[マタイ6:33]
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

 

タイトル:"神の国'と'神の義'は一体何ですか?

 

☘"神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。"

 

このマタイ6:33の御言葉は私たちに慣れ親しんだ御言葉です。

イエス様の山上の垂訓の中に出てくる御言葉で'自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。'と語ってからこの御言葉を語りました。

それから、その次の節で'あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。'と語られました。

 

'神の国'と'神の義'は何でしょうか?

 

一体何を求めなさいという御言葉で心配しなくてもいいですか。
https://youtu.be/tRNXWOBmDVo

 

❤ある大企業のトップが全国の工場を視察した後、工場の役員たちのための晩餐を開きました。
その場所で一人の工場長がトップに工場運営について報告をしました。

 

そのトップは彼が優れた指導力で会社の発展に大きな功績を立てたとして大きく賞賛をしました。
トップはその工場長の功労を称賛する酒をついであげようとしました。
するとその工場長は"会長、申し訳ありませんが、酒の代わりにコーラやサイダーをください"と言いました。
その瞬間、その宴会場の空気が一変し張り詰めた緊張感に襲われました。

 

しばらくして会長は"君は本当のクリスチャンだね。"
このように述べては晩餐会場を出ました。

 

隣にいた先輩がやってきて言いました。
"この機転の利かない人よ、君は特別な昇進の機会を逃してしまったな。私もクリスチャンだよ。 お酒一杯飲んだからといって神様が罰を与えることでもないのに、どうしてこんなに融通がきかないのか。君はもう会長の視野から外されたので会社に戻って荷物の整理でもしたほうがいいよ。"

 

工場長は幼い時代、お酒をたくさん飲むおじいさんのゆえに、母がたいへん苦労したことが忘れられず、酒に近づけば楽しさよりも後悔することがもっとたくさん起こるということを確信していたため、むしろ心平安な気持ちで、上司の命令を待ちました。

 

ところが意外にも問責どころか、むしろ昇進をしただけではなく、特別なボーナスまで受けました。

 

その後も会長は
"彼のように会長のお酒も拒む真実な人なら、どのような賄賂や不正腐敗も拒否することができるだろうね。"と彼を誉め、彼のことをいつも信じ、会社の重要な要職の席におきました。

 

誠実な工場長は、お酒の席で財閥のトップによく見せることのできる絶好の機会にも、聖霊様の導きで神様の子供としてのアイデンティティを守りました。その結果神様は数倍の祝福で彼を満たしてくださいました。🌱

 

イエス様は"神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。"(マタイ6:33)と語りました。

 

'神の国'と'神の義'を求めなさい'という御言葉はどんな意味ですか。

 

'神の国'は天国つまり神様の国です。神様の国は場所の概念で考える国ではありません。
神様の国は、統治の概念であり、神様の御心と統治が完全に成されるところです。

主の祈りで御心の天になるごとく、この地にも神様の御心がなされるという、その場所が神様の国です。

 

私たち心の中に神様の統治が完全に成される時、私たちの心がまさに神様の国になるのです。
私たちが神様の国になるというのは私たちがいつでもどの場所にあっても私の中に神様を受け入れる瞬間、神様が私の中におられる瞬間であり、神様がおられる宮となる瞬間です。

 

私の中に神様の統治と神様の御心が成されるというのは私の心、私の計画、私の考え、私の欲をすべて下ろすという意味です。

 

'神の義'何でしょうか?

 

漢字の義の中に羊と我と、戈の字が入っています。
子羊であるイエス・キリストが私のために十字架で戈に刺されて血潮を流して死んで私の罪をあがなって下さったのがまさに神様の義です。

 

神の義を求めることは死ぬべき罪人である私たちを、イエス・キリストが十字架によって再び命を得させて下さったことによる神の義が、完全に自分の中で成されるように求めることです。

ところが、私たちはあまりにもしばしば神様の義と私の義を区別できず、暮しています。もしかして皆さんも私の義に陥っていることはないでしゃうか。

 

私は教会の役員であり、十分の一の献金を一度も欠かさず、宣教献金をも10年続けて捧げています。私は建築献金をもいくらか捧げましたし、寄付金をもいくらが出しました。私は毎日早朝のお祈り会にも行っています。40日断食もしました。30年の間、交通ボランティアと、日曜学校の奉仕を教会でしました。私は教会のために本当に心を尽くして献身しました。

 

私たちがよく自分の唇で表現するこの言葉の主語は誰ですか?

 

私、これがまさに'自分の義'です。

神様の義を求めなさいというのは、このような自分の義を捨てることです。私の功労、私の努力と苦労を前に立てないことです。

神様の義を求めるとは、イエス様の功労のほかには何も掲げないことであり、主語が'私'から'神様'に変わるものです。

"私がしました"ではなく、"神様が全部しました"に変わるのです。

 

私たちが何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかを心配することではなく、また明日のことをも心配せずに生きるためにはどうように生きるべきでしょうか。

 

イエス様は先に神の国と神の義を求めなさいと語りました。そうすればそれに加えて全て与えられると約束しました。
この御言葉は神様がされる事と、私たちがすべきことを区別しています。

 

つまり神様の国と義を求めるのは我々がすべきことです。
しかし、"何を食べようか何を飲もうか何を着るか"という問題は、神様のする事であると教えられます。

 

そして、優先順位が大事です。何を先にすべきかを語っておられます。

 

我々はよくこう話しします。
"神様、今回のことさえうまくいけば、主日に欠かさず、礼拝捧げます。"
"子どもが今高校3年です。試験の期間です。大学生になると、熱心に奉仕するからその時まで待ってください。"
"今はもうちょっと楽しんで、あるものをもっと楽しんで、年を取ればその時よく信じます。"
"今は平安なので神様がそんなにも必要ではないので苦難に直面した時に神様の前に行きます。"

 

しかし、聖書はこう語っています。
"まず、礼拝を捧げなさい。そしたら、君の人生の責任を負う。まず、霊的なことに焦点を合わせる人生を生きなさい。そしたら、私があなたに残りの人生のことを導く。"
"まず、あなたの義を捨てて神の国と神の義を求めなさい。"

 

私の人生の責任を負ってくださり、私に時間と機会を与えることもできる方はただ神様です。
神様だけが私たちの明日を知っておられる方です。神様だけが私の人生の責任を負うことができる方です。

 

我々は、時に本当に重要なことは取るに足らないものとみなし、重要でもないつまらない事のために多くの時間を浪費してしまう場合が多いです。

 

皆さんは本当に私に重要なことが何かを知って、その重要な事のためにどれだけ力を入れて努力しながら生きていますか?
それとも重要でもない事に、私の力と時間を費やして生きているのではないですか。

 

私たちはみな、この世のものに心が奪われ、神様が今まで与えてくださった恵みを忘れて生きる愚かさに陥らず、何よりもまず神様の国と義を求めて、すべてを与えられる神様の臨在と働きを体験しながら、回復の恵みを味わえますようにお祈りします。

 

♣父なる神様、イエス様を中心として生きるよりも尊い人生はないことを改めて気付かせて下さって感謝します。

まず神様の国と義を求めて神様を人生の中心として、御言葉とお祈りに最優先順位をおいて暮らすように導いてください。

神様だけが、私の明日を知っておられ、私の人生の責任を負うことができる方であることを悟り、私の人生の最優先順位に神様を置きますように。

私の人生の中でさまざまな憂いと心配が押し寄せて座り込んでいる時、疲れ果て傷ついて涙を流している時、私に近寄って、暖かい胸に抱いてくださる神様を感じさせてくださいますように。

 

イエス様の御名でお祈りいたします。アーメン。