聖書黙想“3分の奇跡” 2020年7月29日水曜日

🤲2020年7月29日「3分の奇跡」
(1日3分の御言葉黙想を通してあなたの人生に奇跡を体験してください!)

 

4代に続く信仰を立てあげる聖書の暗唱72聖句
E3.キリストに似る:謙遜1

 

[ピリピ2:3~4]
何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。

 

タイトル:イエス様に似る人生_「私が先に」手を差し伸べる。

 

🍀私たちは謙遜な人が好きです。

持っている物が多いのに、それを前面に押し出さず、他人をもっと配慮し、共感能力に長けている人が私たちは好きです。

 

ところで、私はどれほど謙虚でしょうか。

 

どれだけ他人をよりすぐれてると考え、自分がしたことを表に出さず、他人のことを自分のことのように面倒を見て生きているのでしょうか?

 

福音ソングの作詞作曲家であるチェ·ヨンドク執事の話しをお聞かせします。

https:/youtu.bezdZiegK8wQc

 

❤彼は故郷で信仰生活をしていた時、ある同僚の執事とごく些細なことで口喧嘩をしました。
その事があってから、最初は気まずかったのですが、次第に仲が遠くなりました。
「彼より私がこの教会に先に来たし、私が彼を伝道したのに…」。彼より自分のほうが勉強もできたし、たくさんのことを学んだし、自分のほうがハンサムなのに、あえて私に食ってかかるなんて…。という思いに捕らわれました。

同僚の執事もやはり心を閉ざしたのか、彼に背を向けるのは同じでした。

 

そんな状態で数ヶ月経つと、今は「物心ついたとしたら私の方がましだろうから先に近づこう」「私が先に心を開いて謝らなければ」「私が先に手を差し出して微笑んで話さないと」と思いながらも、いざその人に会うとプライドで表情が硬くなり勇気が湧いてきませんでした。

 

そうしたある日、同僚の執事が先に許しを請いながら手を差し出しました。
二人はお互いをぎゅっと抱きしめたまま、相手の心臓の音を感じながら長い間抱きしめたままでいました。
そして泣きました。そうして二人の関係はまたむつまじくなりました。

 

ところが、仲直りして一ヶ月後、その友達が突然の交通事故で先に世を去りました。
葬式を行ってからしばらくして、その執事の奥さんが故人の遺品を整理していて発見したといい、ある日、日記帳の一部分を崔執事に見せてくれました。

 

“私がイエス様の次に尊敬する人はチェ·ヨンドク執事だ。なぜなら、彼は私をこの教会に伝道してイエス様を信じるようにしてくれたし、私に許しと愛を教えて信仰を強くしてくれた人だからだ。”


この書き込みを見た崔執事は、「頭をバットで殴られたような霊的な衝撃を受けました。

 

彼は身を震えながら泣きました。あの人が手を差し出す前に自分が先に手を出して仲直りしなければならなかったのに。そうすることができなかったことが胸を打ちました。

今や日記に書かれた彼の本心を読んで謝ろうにも、この謝りを受けてくれる友人はすでに故人となっているのですから、仕方がなかったのです。


彼は自分の友達を思いながら「私から先に」という福音ソングを作詞して曲を作りました。

 

🎶私が先に手を出すことができなくて,
私が先に許せなくて
私が先に笑いあげられなくて、
こうしてもじもじしているね

彼が先に手を差し伸べてほしかったし、
彼が先に許してほしかったし
彼が先に笑いを与えてほしかったよ
私はどうした人か

悪賢い我が唇よ,
高慢な私の心よ

なぜ私の口は愛を言いながら
なぜ私の心は和解を言いながら
どうして私が先に負けられないのか
何故私が先に損をすることができないのか

中略

私が先に仕えることができなくて,
私が先に理解できなくて
私が先に高めてあげられず、
こんなに我を張っているんだね

彼が先に仕えてくれることを望んだし、
彼が先に理解してほしかったし
彼が先に高めてくれることを望んだよ
私はどうした人か

醜い私の欲よ
悲しい私の自尊心よ
なぜ私の口は愛を言いながら
なぜ私の心は和解を言いながら
どうして私が先に負けてやれないのか
どうして私が先に損することができないのか🎵

 

[ピリピ2:3~4]
何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。

 

神様に仕える人生において警戒すべきことは、競争による争いや自己誇示のような虚栄です。
争いと虚栄は神様を喜ばせるためではなく、人々との比較の中で自分の優越を装って表現する自己満足です。


自分の義、自分の献身、自分の熱心さ、自分の業績を最高に考え、右手がしたことを左手だけでなくすべての人々に知ってもらおうとするものです。

 

皆さんは、どれほど他人を自分より優れたものと思い、もっと立派だと考えますか?

 

私が誰なのか… 私がどれほどよくしてあげたのに…。といって、相手が先に謝って欲しいと思っておられるのではないでしょうか。

 

イエス様の進む道を阻む最大の障害物は、高慢とプライドです。

過度に主観が強くて心が硬く閉ざされている人、他人の話に耳を傾けない人は高慢な人です。

 

謙遜とは何でしょうか。
国語辞典には「他人を尊重して自分を押し付けない態度」「他人に対する時、傲慢ではなく丁寧な態度で自分の体を低くする」と定義されています。
つまり、高い者、持った者、資格を持った者がそうでない者たちの前で自分の能力、権限、権利を主張せずに自分を低める行動を謙遜と言います。

 

それでは、聖書では謙遜についてどのように話しているのでしょうか。

 

'聖書的な謙遜'とは偉大な神様を認めて神様に従順して従うことです。
謙遜とは人間中心的な観点からすれば、高い者が低い者に対して持つ自分を空っぽにする態度ですが、聖書では低い者が絶対的に高い者に対して持つ当然の態度です。

被造物として創造主の神の威厳の前で当然取るべき態度、神の恵みを受け入れるための必須の態度がまさに謙遜なのです。
偉大な創造主の前で、自分自身がどれほどみすぼらしく、弱い人なのかを自覚することから謙遜は始まります。

今まで受けている恵みが私の能力ではなく、創造主の神様から受けたものだと自覚し、その方の前に謙遜に自分自身を低めることが謙遜です。

 

イエス様は私たちを救うために天の栄光を捨てました。
私たちを栄えるために、自分の栄光を捨て、私たちを豊かにするために、自ら貧しくなり、私たちを尊ぶために、自分は十字架の侮辱とそしりを選択された方が、私たちの主イエス様です。

イエス様は謙虚に仕える時、弱い私たちを強くして、愚かな私たちを賢く、卑賤な私たちを尊ぶようにしてくださるでしょう。

 

私たち皆、謙遜さで私が先に手を差し伸べ、仕えることで喜びに満ちることを祈ります。

 

♣謙遜の模範を見せて謙遜な者を仕える父なる神様、一番低い場所に来られて私を救ってくださった神様を賛美します。

謙遜な神様にもっと似ることを求めて、私の中心に神様の謙遜があることを望みます。

今日も謙遜を忘れないように導いてください。神様を神様として認める人生を送るようにしてください。

私にあるすべてのことが神様から始まったことを忘れず、謙虚さで神様の道具になるようにしてください。

 

イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。