聖書黙想“3分の奇跡” 2020年6月26日金曜日

👌2020年6月26日 "3分の奇跡"
(一日三分間の御言葉黙想を通してあなたの人生に奇跡を体験してください!)

 

4代に続く信仰を立てあげる聖書の暗唱72聖句
D6. キリスト弟子の資格:堅固さ2

 

タイトル:私が信じる一つのこと:あなたの信仰の通りになれ

 

[ヘブル12:3]
あなたがたは、罪人たちのこうような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

 

☘皆さんは何を信じて生きていきますか?

 

ある人はお金や名誉を、またある人たちは「世の中に信じるものが一つもない」とし、自分の拳を信じていると言うこともあります。
私たちは信仰がなければたった1分も生きられません。

 

マンションの10階でも怖がらずに生活できるのは、建物が崩れないという信仰があるから。
見慣れない飲食店で食べ物を買って食べるのもその中に有害物質がないという信仰があるからです。
私達のすべての生活が信仰から始まるように、クリスチャンの信仰生活も信仰から始まります。

 

クリスチャンたちは何を信じながら生きているのでしょう。
信仰生活とはどんなものでしょう?
https://youtu.be/hiywO8BUYno

 

❤ある日刊新聞に"134cmの巨人"というタイトルで載せられたキムヘヨン宣教師の話しです。
キムヘヨン宣教師は5人兄弟の中で一番目に元気に生まれました。
ところが、娘という理由で泥酔状態のお父さんは赤ちゃんに暴行を加え、赤ちゃんは生まれてすぐ背骨を痛めて一生身体が不自由になりました。
父は結局自殺し、母は精神疾患を病んでいて彼女は14歳に他人の家の家政婦として働きました。

 

小学校をやっと卒業して、家政婦として毎日厳しい生活をしていたある日、無料職業学校訓練生募集広告を見ました。
技術を学んだら家政婦として暮らすよりましだと思って職業学校に入りました。
そこで敬虔なクリスチャンの先生に出会い、教会に通うことになって、イエス様を信じるようになりました。

 

貧しさと絶望、不具と障害で一生恨みながら生きていくしかなかった彼女の人生が、イエス様を信じて完全に変わりました。
暗闇の現実に打ち勝つことができる新しい力と新しい能力を持つようになり、希望を見るようになって、不具である自身も神様に愛される資格がある尊い存在であることを悟りました。

 

昼は技術を学んで夜は検定試験の準備をしました。
ところが、子供のときの背骨損傷で、彼女の身長は134センチで止まってしまいました。
少し歩くだけでも苦しくて何度も休まなければならず、痛みのために腰に腹帯を13年間巻いて通わなければならず、座っているのが辛くていつもうつぶせになって本を読んで勉強しなければなりませんでした。

 

それにもかかわらず、神様が共におられるという信仰と、熱心に努力をし、全国障害者技能大会の編物分野で金メダルを取り、1985年コロンビアで開催された世界障害者技能大会で優勝しました。

 

そんなある日、アフリカでも一番貧しい国の一つであるボツワナで職業学校の編物教師を募集するという広告を見ました。
彼女は6ヶ月の短期宣教に志願して1990年にボツワナに発ちました。

 

砂漠の真ん中にいる職業学校の子供たちを見てこんな告白をしました。
“ここの子供たちが過ぎし日の私を見ているようで、とても心が痛かったです。私を貧困と苦痛、社会的偏見から脱して強くしてくれた神様をこの子供たちにも会わせてあげたかったんです。”

 

彼女は14年間そこに留まって子供達に仕えました。
2004年に米国に渡り、39歳でニューヨークのナヤックカレッジで社会福祉学科の勉強をし、2009年にコロンビア大学で修士号を取得し、現在は国際社会で福祉士として働いており、『青春よ、胸躍る仕事を探せ』という本を書きました。

 

134cmの低い身長、脊椎障害、不自由な両足、このすべての欠点と苦難を乗り越え、キム・ヘヨン宣教師を蘇らせ、強くさせた力…。その力はどこから来たのでしょう。

 

世間は絶望と不可能、迫害と偏見を与えたが、キム・ヘヨン宣教師には神様だけが最後まで愛し、共にしてくださる真実な方だという確固たる信仰がありました。
神様は希望と可能性、許しと感謝をくださり、夢とビジョンを育ててくださいました。

 

皆さんは何を信じ、また誰を信じて生きていきますか?

 

イエス様を信じることを信仰生活と言います。
信仰生活はイエス・キリストを見つめることです。
イエス・キリストを見つめるのは十字架を背負う人生であり、イエス様の御言葉を受け入れる人生です。
しかし、我々の信仰生活は平らな大道ではなく、狭い道です。

 

絶望と放棄、不可能と迫害、自分自身に対する憐憫と世の中に対する不平といった絶望的な考えは疲れ果てます。
このような否定的な信仰は、サタンが与える信仰です。
神様がくださる信仰は次元が違う信仰です。

 

[ヘブル11:1]
信仰は望んでいる事がらを保障し、目に見えないものを確信させるものです。

 

神様は見ないで信じる信仰がもっと尊いと語られました。

 

[ローマ4:18]
彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。

 

望めない中でも望みを抱いて信じることこそ信仰と言えます。

 

[ヘブル11:6]
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

 

信仰がなくては神様を喜ばせることができません。
目に見えないものを信じるというのは実は簡単ではありません。時に疑ったりもします。
疑いは霊的成熟のために必ず経験しなければならない信仰的な段階です。
しかし、疑いをあまり長く抱いてはいけません。疑う患者さんが病気が治りにくいように、疑う祈りには答えがありません。

 

信仰は頭で知ることを前提としません。
創造主である神様の力を、被造物である私の限られた経験と僅かな知識だけで判断するのは愚かなことです。

 

[ヘブル4:2]
福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。

 

御言葉は信仰と結び付けられてこそ、力があります。

 

イエス様が百人隊長に"さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。"とするとちょうどその時、しもべ癒されました。

 

奇跡が起こる場所にはいつも「信仰」がありました。

 

私たちは、目の前に見える環境と限界だけを眺めて何もできないと諦めますが、限界を乗り越えられると信じ、私に力を与えてくださる神様が一緒におられることを信じ、諦めずに最後まで努力すれば、信仰の通りに成し遂げられます。

 

人生最大の危機の中でも、神様は私を一人で放っておかず、良い道に導き、永遠に共にいてくださいます。

 

時には私のそばに誰もいないように思える時がありますが、イエス様はいつも私を見守っていて、私が倒れそうだったら大きな腕を広げて私を抱いてくださいます。

 

信仰だけが我々の力であり、慰めになり、力になります。

 

私たちは皆、いくら難しく辛い目にあっても諦めず、新しい事をされる神様だけを見つめながら、神様の約束に耳を傾け、その御言葉を確信し生きることを祈ります。

 

♣私の人生を司る父なる神様、疲れ果てた私の魂を哀れんで瞳のように守ってくださり、夢と希望を与えて下さい。

暗闇の現実を十分に乗り越えることができる新しい力と新しい心を着せ、再び挑戦し、前に進むことができる力と勇気を与えて下さいますように。

私の心を握ってくださり、周りの声に動揺しないように、ただ神様の助けだけ確信して求める堅固な信頼を与えてくださいますように。

 

イエス様の名前で祈ります。アーメン。