聖書黙想“3分の奇跡” 2020年6月24日火曜日

🎖 2020年6月24日 "3分の奇跡"
(一日に三分間の御言葉黙想を通してあなたの人生に奇跡を体験してください!)
 
4代に続く信仰を立てあげる聖書暗唱72聖句
D5. キリスト弟子の資格:堅固さ1 

 

タイトル:無駄ではない私たちの労苦。

 
 
[第一コリント15:58]
ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことをしっているのですから。
 
私たちは自分の努力と功労、業績を誰かが認めてくれることを望みます。
夫や妻が認めてくれて、両親が認めてくれて、子供らが分かってくれると力が出ます。
先生が認めてくれて、上司が認めてくれて、牧師が認めてくれたら楽しいです。
しかし、それを分かってくれない時、誰も褒めてくれない時、皆さんはどんな気持ちになりますか?
 
褒められようとしたことではなかったとしても、“お疲れ様、すごい、よくやった”と期待していたその一言を聞くことが出来なかった時、本当に寂しく、時には悔しく、怒ったりします。
しかし、わかってくれないからとして寂しがったり、落ち込む必要はありません。
 
なぜでしょう?
 
ある小さな教会での出来事です。
 本堂の出入り口を使用しすぎて扉が外れてしまいました。
 礼拝の時間が近づいたので急いで大工さんに連絡し、大工さんはすばやく来て一生懸命働いて完璧に直しました。
 
牧師先生はとてもありがたくて皮財布をプレゼントしながら言いました。
 “ありがとうございます。私たちの教会創立記念礼拝の時に作ったものです。ほんのわずかですがお礼に差し上げますので、お納めください。”
 
すると大工さんはかっと怒りました。
 “いや、人を何だと思っているのですか。こんな財布をもらおうと考えて扉を直したとでものも思うのですか。こう見えても、私はこの分野の最高専門家です。”
 
“それではどうさせていただいたらいいですか。 ”
 
“10万ウォン(約1万円)はくださらないとですね。それでも教会のことなので、安くしてあげたのです。”
 
“あ~はい。それは本当にありがたいことですね。”
 牧師先生はプレゼントとしてあげようとした財布から30万ウォンのうち10万ウォンだけを取り出して大工さんに渡しました。
 
そのまま財布を受け取っていたら、財布だけではなくその中に入っていた30万ウォンをもらえたはずなのに。。。 “私を誰だと思っいてるのか。時間単価でいくらだと思っているのか。” 欲張りや高慢さのゆえ、お金は多く受け取ることもできず、メンツは丸潰れとなりました。
 
皆さんも生きていながらこの大工さんのように、私が昔、誰だったか知ってる?私が誰々に対してこんなによくやったのに…。私の功労を前面に出して分かってもらいたい時がありましたか。
 
私の努力と能力や成果を分かってもらえず、それに対する報いも十分になくて残念に思っていだことはありませんでしたか?
 
善良で慈しみ深い私たちの神様はすべてをご存知です。
神様は認めてくださるだけでなく報いを与えてくださるお方です。
聖書は揺るがなくいつも神様のことのために力を尽くしなさい、そうすれば私たちの苦労は決して無駄ではないと語られます。
 
クリスチャンは、人の言葉や目の前の一時的な報いに惑わされることなく、神様のために仕える場所を守らなければなりません。
 
教会の職分は高い階級や高い身分ではありません。
むしろもっと謙遜に低い者の位置でたくさん仕えるようにとくださったものです。聖徒たちが分かってくれなくても、牧師先生が分かってくれなくても神様はみなご存知です。
 
聖書は私たちのすべての苦労が無駄にならないと語りますが、「主の中で」という但し書きがついています。
「主の中で」という言葉は、「神を信じる信仰の中で」、そして「イエス・キリストの愛の中で」という意味です。
「すべての苦労」とは、聖書の御言葉を学ぶことから始まり、礼拝、お祈り、御言葉の黙想、奉仕、伝道、宣教など、自分の都合と条件に合ったすべてのもの、神様が喜ぶすべてのことです。
 
ところが、この御言葉は「ですから」という接続詞で始まっています。
「ですから」というのは、すでにある内容を説明した後、結論的に言うことです。すなわち、私たちの苦労が無駄にならないという明らかな理由をすでに申し上げました。
 
私たちの労苦が無駄ではなかった明らかな理由は何でしょう?
 
神様の恵みのゆえです。
 
パウロは「第一コリント15:10」で「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」と告白しました。
 
私はどうですか?もしかして、今の私になったのは、私の能力や私の才能のためだと思いますか?
 今の私を存在させ、ここまで立ててくださり、私の価値を現わしてくださったのはただ神様の恵みです。
 
私たちの労苦が無駄ではなかったもう一つの理由は信仰のゆえです。
 
[第一コリント15:2]
パウロは“私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。”と語られました。
 
私は神様の御言葉を無駄に信じる人ですか。それとも真実に信じる人ですか?
 
私は自分の欲を満たし、自分を表すための道具として神様を利用していませんか?それとも私を救ってくださったことだけでも感謝して、神様が喜ぶことをしますか。
神様は塵芥のようにみすぼらしい私を赦してくださり、救ってくださり、永遠の命を約束されました。
これを信じる信仰こそ、私たちのすべての労苦を無駄にしないことです。
 
[ヘブル11:6]
神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。と語られました。
 
神様は自分を求める人々に必ず報いでくださいますが、その報いはこの地でもらうことができるし、この地ではなく永遠の中でもらうこともできます。私がもらうこともできますが、私が死んだ後、子孫が受け取ることもできます。
 
この世での報いは「小さなハレルヤ」で、この世で報いがなくても私の子孫や天国からもらう報いは「もっと大きなハレルヤ」です。
 
[マタイ6:2]
~ 自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
 
一生懸命努力して世界で金メダルを取って勲章をもらうことも重要ですが、永遠な神の御国でより大きな報いを受けることがもっと祝福です。
 
信仰の遺産として子孫の万代が大きな恵みと祝福を受けることが最高の答えです。
 
私たちが搖れることなく、私を救ってくださった神の国のために労苦して喜びで仕えることを祈ります。
 
私の苦労に祝福をくださる父なる神様、何の資格もない私を救ってくださり、私を役に立てる働き手にしてくださってありがとうございます。
 
どんな状況や環境でも神様の恵みを覚え、揺るがない信仰で喜んで働かせてくださいますように。
 
今すぐ認められず誉められなくても、神様はご存知でおられることを信じて、永遠な神の国での報いを期待しながら生きていけますように。
 
イエス様の名前で祈ります。アーメン。