聖書黙想“3分の奇跡” 2020年6月12日金曜日

2020年6月12日 "3分の奇跡"
(一日三分間の御言葉黙想を通してあなたの人生に奇跡を体験してください!)

 

4代に続く信仰を立てあげる暗唱聖句72

 

D2. キリストの弟子の資格-キリストをはじめの場所に置く2

 

タイトル:なぜ主は自分を捨て自分の十字架を負いなさいと語りますか。

 

[ルカ9:23]
イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」

 

イエス様の弟子になるためにはどんな資格が必要ですか。

イエス様は弟子になろうとしたら、自分を捨て自分の十字架を日々負いなさいと語りました。

 

この御言葉は何の意味でしょうか?

何を捨て何をしなさいというのですか?

 

https://youtu.be/BEj3Rz_ghpM

 

❤ ユン・ソンチョル牧師の本<オールイン>に出てくる物語です。

 

彼は20歳の時にアメリカに移民してアメリカンドリームを夢見ていました。

'コーヒーとお茶にきれいな姉妹もいる'という先輩の言葉に惑わされて教会に初めて行くようになりました。

聖書が本物なのか偽りなのか読んでみて決めようという考えから、聖書の勉強をしている途中、ヨハネの福音を読んでイエス様を受け入れました。

 

「イエス様が真理なら、しっかり信じよう」と思って、オールインすることを決心しました。

 

彼はその後日本へ宣教に行き、神学の勉強をした後、2004年に牧師の按手を受けました。

世と神様、両方に足を乗せて、状況によって適度に重さの中心を移しながら生きる現代人に向けて「オールイン」せよと叫びながらこう告白しました。

 

☘ある晩、私はある集会に参加しました。

恵まれた時間の中で牧師は神様に対する全面的な献身を強く挑戦されました。

その時、私は心の中で 「そうです。献身・・・」 献身しなきゃ!

そうしているうちに、主が急に「お前も!」というのです。

私は、多少の当惑とともに、いらいらした声で、すぐこう言いました。

 

「やったでしょう、全部やったんじゃないですか。「アメリカンドリームもあきらめて献身して、残っていたものまで全部持っていって、もう本と服以外は何もないんじゃないですか。今やっと友達の部屋に居候しているじゃないですか。私がどれだけ献身したか知っているのに、何をさらに献身しろとおっしゃるんですか。”

 

こう問い詰めるように神様に食ってかかりました。

 

しかし、神様は、やんわりとしながらもきっぱりとおっしゃいました。

 

“私は君の持っている何かを要求してはいない。君の手にある何かがほしいというわけではない。私はただ君がほしい。”

 

まさに大きな金槌で殴られたように、ぼーっとし、その瞬間涙があふれました。
そしてその時、気がつきました。

 

神様は私にある何かを受けたい方ではなく'私'を望む方だという事実を。

 

以前は主を私の救い主として完全に受け入れるのに「オールイン」をしたとすれば、さらに今はその方の呼びかけの前で私が持っている何かを差し上げる献身ではなく、私自身を献身する「オールイン」を神様は望まれたのです。

 

私は神様にこう叫びました。
「神様、私ここにおります。私は神様のものです。」🌱

 

イエス様は弟子たちと群れにこのように語りました。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」

 

世界は、好きなことを思いっきりやれ、自分自身を素敵に包装して自慢しろ、広く、楽で華やかで、速い道を行けと言われます。
しかし、イエス様は弟子になろうとするなら自分を捨て、日々自分の十字架を負いなさいと語ります。

 

自分を捨てるというのはどういう意味ですか。
何を捨てなさいというのですか。

 

「自分を捨てる」とは、自分の心、自分の計画、自分の考え、自分の欲をすべて放棄するということです。私の思い通りではなく、父なる神様の御心の通りに生きることです。

 

私の中で私のために生きる私が死に、私のために十字架で死んでくださったイエス・キリストの義が完全に完成するように、神様の導く通りに従うのです。

 

「私の存在、私の所有、私の家族、私のすべての時間、私のお金の主人がイエス様であることを告白し、すべてを祭壇にのせて神様に捧げるのです。

 

しかし、主は私たちが豊かに暮らすことを嫌ったり、何かを強制的に絶えず要求したりする方ではありません。

 

神様が私たちに望まれるのは私たちの何かではなく私たち'自身'です。主はわたしの「主人」であることを望んでいます。

 

神様は私たちにそのような要請をする前に、神様が先に十字架で私たちのためにすべてを差し出してくださいました。

 

そして私に語られます。
「私をあなたの人生の主人として招いてくれないか?」

 

「自分の十字架」を負いなさいというのは、どういう意味ですか?

 

神様はすべての人に十字架を与える時、形は違いますが、各自が耐えられる十字架を与えます。


ところが、ある人は幸せに笑いながら軽く抱いて生き、ある人は苦痛を感じながら鉄の塊のように重く背負って生きています。

 

十字架は苦難です。しかし、すべての苦難は十字架ではありません。なぜなら、自分の過ちと咎によって引き起こされる苦難もあるからです。

 

だから、十字架には2つの十字架があります。「錯覚の十字架」と「福音の十字架」です。

 

「錯覚の十字架」は苦難ではありますが、信仰のために得た苦難ではなく、私の欲と罪によって生じた苦難です。

 

一方、「福音の十字架」は信仰を捨てれば経験しない不利益と逼迫であり、純粋にイエス様を信じるが故に与えられる苦難です。

 

イエス様の弟子が持つべき十字架は、「錯覚の十字架」ではなく、「福音の十字架」です。

 

私たちの主は私のために十字架を避けずに十字架の道を行かれました。
イエス様が十字架に苦痛を受けたことで、私たちはすべての苦痛から解放され、すべての罪がゆるされ、平安が与えられました。

 

だから十字架は私への愛であり、ゆるしであり、犠牲で、和解です。

 

私に与えられた十字架が重いからといって遠ざけたり大変だと脱いだりしてはいけません。

 

イエス様の真の弟子は、イエス様の十字架を日々記憶している者たちです。

私のために血潮を流した主の愛を毎日胸に刻む者たちです。

そして、その十字架について行く者たちです。

 

登れない山も、下りることのできない丘も、十字架に従う人々には問題ありません。

世の中の富と名誉のために、主の十字架を下ろさないでください。

 

主の十字架は私たちを愛し、自分の体を完全に差し出してくださった主の愛です。

 

人間的な考えでは自分自身を捨て、その苦しそうな十字架を負っていけば滅びそうに見えますが、むしろもっと自由になって、もっと豊かな命を得ます。

 

私たちが自分を捨て、自分の十字架に日々負って行く時、なぜ自由と豊かな命を得るのでしょう?

 

詩編23編の御言葉です。

主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

 

皆さん、主の十字架の愛を感じながら、自分を捨てることを通して緑の牧場、憩いの水のほとりで主といつも共にし、主の栄光のために生きることを祈ります。

 

♣十字架の愛を先に見せてくださった父なる神様、神様がくださった十字架が重くて大変だと文句を言わず、十字架を誇りとし、すべてに感謝する私になりますように。

私の考えと欲をおろして、神様の御心に従順し、十字架を負って行く時、喜びを持って全うできますように。

神様から与えられた十字架が、時には重荷のように思われても、私たちのうめきさえも聞いて下さる神様を信じて、お祈りで主だけを見上げていけますように。

 

イエス様の御名でお祈りします。アーメン。