聖書黙想“3分の奇跡” 2020年4月29日水曜日

 💘2020年4月29日"3分の奇跡”

(一日3分間の御言葉"黙想"を通じてあなたの人生に奇跡を体験してください!)

 

4世代に続く信仰者を立てあげる聖書の暗唱聖句72

 

C1. 神様により頼む:聖霊1

 

[1コリント3:16]

あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

 

タイトル:私の内に御霊がおられるのですね?

 

2004年に放送された最も人気のある韓国ドラマ"パリの恋人"を知っていますか?

そのドラマで、俳優が女優の主人公に向かって"あなたは私の内にいる"という愛の告白をした場面は、多くの視聴者の心に大きなインパクトを与えました。

 

皆さんの内には誰がいますか?

 

聖書では、"私の内に聖霊がおられる。"と語ってます。

 

目に見えない神様とイエス様。このお方が私の内におられるとは。 だからこそ、私が神様の宮であると。

 

愛する人が私の内にいたら、本当に幸せで気分はいいと思います。それなのに私の内に私を愛する聖霊様がおられるのだという事。私たちはどれほどそれを意識して過ごしてますか?

 

または、聖い宮と言われている自分自身の体を自分勝手に扱ってはないでしょうか。

 

今日は第一コリント3章16節の御言葉から、私の内に住んでおられる聖霊様を体験したいのです。

 

https://youtu.be/bJ2317-cXsY

 

🖤ある日、木工所にある様々な道具たちが集まって会議を開きました。

 

会議の司会はいつものように金づちが行いました。しかし会議中に、一部のメンバーは反対の意見を持って金づちに対する不満を吐きました。

 

"金づちはいつも物を割って壊します。いつもその様な騒動を起こすので、司会者としての資格はありません。ここから離れるべきです。"

 

金づちは言いました。

"わかりました。私も自分の欠点を認めますので、ここから去ります。しかし、私と共に行かなければならない物がありますが、それはかんなです。何故ならかんながする事には全く深みがなく、いつも他のものの皮を削るだけだからです。"

 

この言葉に怒ったかんなはこう言います。

"私だけじゃなく物差しも一緒でなければなりません。何故なら物差しは自分だけが正しいかのようにいつも目盛りを付けて測定しあがってみんなにとって役に立たないからです。"

 

すると、静かに聞いていた物差しが立ち上がって、ノコギリを指差しながら"ノコギリは、団結するのではなく分離させるので、ここでは最も不必要な物です。"と言いました。

 

ところが、大工さんは、この全ての道具を集めて一瞬のうちに美しい説教壇を作りました。

 

お互いの違いを認めず、弱点ばかりを指摘し喧嘩してた彼らは、欠点の多い自分たちを用いてこのように美しい説教壇を作るために用いられた事実に感動しながら、主のために用いられたことを喜びました。

 

このように私たちは各自欠陥も多くて弱点も多い器官です。

 

神様はそんな我らを働き者として用いてくださり、共に働くようにしてくださったので、私たちは信仰の中で一つであり、霊的な友です。

にもかかわらず、金づちとかんな、物差しやノコギリの姿が、私の姿とはなってはいないでしょうか。

 

成熟したクリスチャンになるためにはどのように生きればいいですか。

 

使徒パウロは第一コリント3章16節で、私たち自身が神様の宮であることと、神様の御霊が私たちの内に住んでおられることを知らないのですかと尋ねました。

 

この御言葉をすでに知っていながらも、なぜそれを全く知らないかのように生きているのかという意味です。

 

使徒パウロが宣言したこの御言葉は、当時ユダヤ人たちには衝撃そのものであったし、真正面からの挑戦状でありました。

 

なぜなら、ユダヤ人たちは神様の宮は、エルサレムにある石で作った宮以外にはないと信じていて、そこには自分たちさえも勝ってに登ることが許されていないほど、きよい所だと信じたからです。

 

なのに、使徒パウロは神様はエルサレムの宮だけでなく、異邦人をも含むすべての信じる者の内に住んでおられると言いました。

 

使徒パウロはどんな根拠で聖徒一人一人を指して神様の宮だと言ったのでしょうか。

 

それは聖徒の内に住んでおられる聖霊の内需にあります。

 

私たちがイエスキリストを信じるようになったら、その瞬間聖霊様が私たちの心に入ってこられ、私の内に住んでくださいます。

 

宮とは神様の御霊が宿る聖なる場所です。

 

神殿は礼拝堂だけでなく、どこであっても神様が臨在することは可能であり、聖なる神殿である聖徒たちが集まって礼拝を捧げる命の聖霊共同体です。

 

聖霊は神様の霊であり、神様ご自身です。その尊い聖霊様が私の内におられるということです。

 

私たちの体が宮なので、私たちは宮である体を大切にし、守る責任と義務を負っています。

 

器にご飯を盛ったらお茶碗、花を刺したら花瓶、ごみを入れたらゴミ箱になるのに、私たちの体は神様の御霊がおられる宮と呼ばれるのです。

 

皆さんはこの事に感謝をもって、喜びとともに生きていますか?

 

残念なことに、多くの人はこの事実を忘れてしまい、世俗主義、物質主義、快楽主義に没頭して人間の情欲が暴れる場所として体を勝手につかっています。

 

私たちの体は宮であるので、私たちの目、耳、そして口が聖いものでなければなりません。

 

私たちの手も良い所で良いことをしなければならず、私たちの足も神様が喜ぶ所にいなければなりません。

 

使徒パウロが私たちの体を宮になぞらえた理由は何ですか。

 

コリント地域は、港町で裕福な商業都市であって快楽の巣窟でありました。

 

パウロはここにコリント教会を設立し、アボロが来て彼らの信仰を助けました。それで、コリント教会は知識と賜物だけではなく、体験が多かったです。

 

しかし、霊的には正しく立つ事が出来ませんでした。コリント教会は一つになれなくて、内部では分裂が起こってある者はパウロ、ある者はアポロと分かれました。

 

パウロは自分が植えて、アポロが水を注ぎますが、神様が育ててくださるので、植える者も水を注ぐ者も何者でもなく、育ててくださる方雄一神様だけだと語りました。

 

使徒パウロが聖徒や教会を神様の神殿で語ったのは聖徒が分かれて分裂する事が教会を腐敗させて破壊する事であるから、神様の裁きを逃れることの出来ないほど重大な罪であることを警告するためです。

 

教会が何故一つになれないのでしょうか。何故お互いを愛せないでしょうか。

 

その理由は、神様を見ることではなく、人間を見るからです。

 

私の体の主人は私ではありません。宮の主人は神様です。イエス様の血潮の代価によって買い取られたきよい私の体を、私のものであるかのように心の赴くままに用いてはなりません。

 

私たちが聖霊と御言葉で生まれ変わったからといってすぐ成熟したクリスチャンになることではありません。

 

私たちの古い人が死んで、新しい御霊が入って来てくださいました。しかしだからといって、その霊を抱いている私たちの肉と心は未だに古い人のそのままです。

 

だからこそ、生まれ変わった後も神様を見上げようとする霊的な部分と神様を拒否して世を見ようとする肉的な部分が戦う霊的戦争が起こります。

 

神様をふさぐのは嫉妬と分裂、高慢です。嫉妬は劣等感から出て、分裂は優越感から出てきます。劣等感と優越感は比較するところから始まります。高慢は自分が他の人より上で神様がいなくてもよく生きれるとの錯覚です。

 

分裂と分離は悪魔の仕事です。 分裂との戦いがある所には常にサタンの仕業があるだけです。

 

私たちは体を神様が喜ばれるきよい聖なる生きた供え物として捧げるために、御言葉と祈りで私自身に水を注いで肥料をあげる訓練をしなければなりません。

 

信仰が成熟されるということは、それは肉なる部分を脱ぎ捨てて段々と霊が肉を収めることを意味します。

 

主はいつも互いに和解し、平和に生きることを望んでいます。

 

したがって、競争、戦争、分裂を避けて和解して一つの体をつくり、主が任せた神様の御国の建設と拡張に心を合わせなければなりません。

私たち皆、自分の内に住んでおられる聖霊様と共にきよい宮として立て上げられることをお祈りします。

 

 ❤️愛する父なる神様、未だに傲慢で自己中心な私を愛して、聖霊様を送り、いつも共にいてくださり、きよい宮としてくださったこと感謝します。

 

神様の御霊が臨在する私の体を勝手に扱う事なく、私の目、耳、口、手と足をあなたの栄光のために生きた供え物として捧げられますように。
イエスの御名によってお祈りします。 アーメン

 

こちらは韓国で配信されている3分の奇跡を日本語に翻訳したものです。

韓国語のサイトはこちらから

https://band.us/n/a5ae284f0d8aV