聖書黙想“3分の奇跡” 2020年6月8日月曜日

🥣2020年6月08日"3分の奇跡"
(一日3分間の御言葉黙想を通してあなたの人生に奇跡を体験してください!)

 

タイトル:落ち込まない土の器1

 

[第二コリント4:7]
私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

 

❤デパート王ジェイシペニーの話しです。

 

彼は若い頃株式に投資し、1929年アメリカの証券市場騒ぎによって全財産を失ってしまいました。

人生の希望を失った彼は挫折と絶望でひどいうつ病にかかり、結局病院に入院することになりました。自殺のために睡眠薬を服用したりもしましたが、効きませんでした。

そうしたある朝、彼の病室のすぐ隣の病院の礼拝室から賛美の声が聞こえてきました。

彼は賛美歌の音に耳を傾けました。賛美の後、牧師の説教にも耳を傾けました。説教が終わった後、患者さんは皆、大声で祈り始めました。彼はそのお祈りの声に合わせて静かに自分のお祈りをしました。

 

祈っている間に突然彼の心に表現できない平安が波のように押し寄せてきました。ペニーは、その時を思い出してこう告白してました。

"それは奇跡だと言うしかありません。私が賛美と聖書の御言葉とお祈りの声を聞いていた時、真っ暗な洞穴の中から徐々に光が差し込み、後ではその洞穴の中が一面に光で満ちるようでした。それはまるで地獄から天国に移ったような感じでした。”

その日でペニーは絶望を乗り越えて起きました。彼は新しい勇気と希望と安らぎを得ました。 退院後、彼は勇気を出して力仕事から始めてコンビニを開きました。

彼は顧客の小さな不便さまで察しながら丁寧に観察し、どんな物でも顧客が返品することは受け入れてあげて、収益性の高い物ではなく顧客が必要とする物を売りました。

 

そうして職員5万人の大企業に成長させて大デパート王になりました。彼は死ぬまで彼の所有を宣教のために使いました。

ジェイ·シー·ペニー - 彼の名前の"J.C."は"Jesus Christ"の略で、"Penny"は"神様に向かって生きた者"という意味を持っているそうです。

 

[詩編42:5]
わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。

 

私たちの人生はいつも戦場のようです。私たちは幸せと成功のために一生懸命走りますが、予期せぬ病気、事件、事故、罪と世の誘惑、心配と憂い、不安と恐れが私たちを取り囲んでいます。

 

これらは私一人では解決できない重荷で、自分の力で解決しようとすると、かえってその重荷に負けて気を落とすことになります。

 

パウロは私たちを土の器にたとえながら土の器に宝を入れたと語りました。土で作った陶器の中に福音の光と恵みの宝物が入っています。

つまらない器に金銀宝を盛るとその器が宝石箱になるのと同じように、私たちのような土の器もその宝によって宝石箱になりました。

 

私たちはいつか死ぬだろうし、この土の器は簡単に壊れますが、この器が弱いほど神の力はさらに強く、宝物そのものがもっと輝きます。

 

パウロはいかなる苦難と非難、そして迫害の中でも勇気を失わないと告白しています。

 

[第二コリント4:1]
こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、

 

[第二コリント4:8]
私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。

 

パウロは、大変な目に遭っても苦しめられても、行きづまることがあっても落胆しないと語っています。この時のパウロの状況はどうだったんでしょうか。

 

[第二コリント2:4]
私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらに、あなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を知っていただきたいからでした。

 

パウロは心に大きな苦しみ、心配、涙で嘆きながらひっくり返るような状況でした。また、生きる気も絶え、死刑宣告を受けたように気落ちするような状況でした。

 

[第二コリント1:8~9]
兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危なくなり、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。

 

パウロは学歴や背景的には無傷で堂々とした人でした。そんな彼がどうして落胆したのでしょう。

 

[第一コリント15:9]
私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。

 

彼は一時、神様の教会を迫害し、彼の手は、ステパノを石で打ち殺した血塗られた手でした。 それが彼の一生のレッテルであり、心の重荷であって落胆させるものでした。

 

[第一コリント15:10]
ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。

 

私が今の私になったのは神様の恵みによるものであると告白し、パウロはただ自分と共におられる神様の恵みで落胆せずに克服しました。

 

このように恵みを受けると気落ちしません。落胆したということは恵みがない証拠であり、落胆は不信仰の実です。

 

"恵み"とは何でしょうか?

 

世の中の人々は落胆するほどの状況でも、我々は落胆せずに祝福を楽しむ恵みの道具があります。

 

恵みを破ったりまたは恵みを楽しんだりもできる道具、それは何でしょうか? 明日続きます。 (6/7/20週間礼拝説教参照)

 

♣愛の父なる神様、私はたとえ大したことのない土の器ですが、割れて投げてしまう土の器ではなく、宝なるイエス様を盛った土の器になったことに感謝します。

土の器は何の価値もないが、イエス様が私の中におられるのでその故に尊い土の器になったことを分かりました。

これからはイエス様を盛った宝物で心を尽くし、思いを尽くして知力を尽くしてイエス様に仕え、キリストに私の人生を委ねますように。

土で作った陶器のような私に命をくださった神様が、私たちの弱い人生を大きくて柔らかい御手で握ってくださって尊い主を盛る丈夫な器になりますように。

 

イエス様の御名でお祈りします。 アーメン。