聖書黙想“3分の奇跡” 2020年6月4日木曜日

☀2020年6月04日"3分の奇跡"
(一日3分間の言葉"黙想"を通じてあなたの人生に奇跡を体験してください!)

 

タイトル:悪をもって悪に報いず、祝福を与えなさい。

 

[第一ペテロ3:9]
悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。

 

❤大洋を航行する船で働いている二人の物語です。

お酒をほとんど飲まなかった航海士が、たまたま酔ったことがあります。

普段その人が嫌いだった船長は航海日誌にこう記録しました。

"今日も航海士は酒に酔っている。"

船長は航海士が酔ったのは初めてではありませんが、そのようなことはほとんどないことをよく知っていました。

しかし、航海士が解雇されることを望んで、そのように記録したのでした。

この事実を知った航海士は、その記録を変更してほしいと哀願したが、船長は"あなたが酒に酔ったのは事実で、私はそのことを航海日誌に記録しただけだ"と答えました。

数日後、航海士が航海日誌を記録する順番になりました。

航海士はこのように日誌を結びました。

"今日は船長が酔っていない。"

この記録が暗示されるということは、毎日お酒を飲んでいるのにその日だけ飲まなかったという意味です。

その意図を知った船長は、その内容を抜いてほしいと要求しましたが、航海士は"これが事実なので、事実のまま記録しなければなりません"と答えました。

このように人を害するとブーメランのように自分を害する矢になって飛んできます。

 

皆さんはこのような場合、どのように対応しますか?

どうようにするのが聖書的でしょうか。

 

[マタイ5:44]
しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

 

神様が語られたことの中で一番実践しにくい御言葉の一つがまさに敵を愛しなさいということでしょう。

聖書は敵を愛することにとどまらず、迫害する者のために祈りなさいと語ります。

私たちは誰かに損害や傷を負った時、私たちは"目には目、歯には歯"という気持ちで、もらった通りに返すか、もっと加えたことで復讐したがります。

復讐は自分が受けた傷と痛みと苦痛を、相手にもそのまま感じさせるもので、復讐の心は自分が受けたその痛みを相手もそのまま感じさせる心です。

 

[マタイ5:46~48]
自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

 

[第一ヨハネ3:15]
兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。

 

聖書は神様のように完全になりなさいと語って、憎むのも殺人者だと語っています。

西洋のことわざに"善を悪で報いるのは悪魔の仕業であり、悪を悪で報いるのは人の仕業であり、悪を善で報いるのは神様のような行動だ"と言いました。

私たちに向けた神様の愛は、世界が与えてくれる愛とは質的に違います。

 

神様の愛はどんな愛でしょうか。

神様の愛は "先に愛する愛"です。

 

[第一ヨハネ4:10]
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物として御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 

私たちが神様を先に愛したのではなく神様が私たちを先に愛しました。資格のない私たちを先に愛したのです。

この愛にはこの上もない赦しが内包され、無限の忍耐が醫いています。

神様の愛は"最も大切なものを犠牲にした十字架の愛"です。

十字架を通して神様はうめく人生を救い、彼らに永遠の命の希望を与えました。

十字架の愛は愛の完全体で、この愛を体験した人だけが世に愛を現していくことが出来ます。

 

神様の愛は"変わらない熱い愛"です。

人間の愛は計算的であり、外的条件と内的気分によって変わり、時間が経てばぬるくなりますが、神様の愛は決して変わらない熱い愛です。

神様の愛は改訂版も増補版もない永遠に同じ愛です。どんなものでもその愛を断ち切ることはできず、死より強い愛です。

 

神様の愛は敵さえも愛する"大きくて広い愛"です。

 

[ローマ12:19]
愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」

 

私たちは私を愛する人だけを愛する利己的で排他的な愛ですが、神様の愛は敵さえも愛し、敵のために祝福して祈る大きく広い愛です。

こんな神様の愛の中で住んでいる私たちは本当に幸せです。

 

このような愛を受けた者として、私たちはどう生きるべきでしょうか?

 

私たちはどんな状況でも他人を愛し祝福して生きる者として呼ばれました。

他の人々を祝福することが、すなわち自分自身が神様の祝福を受けて楽しむ道です。

私たちの心は霊的戦場です。頭では理解しますが、実際には心では受け入れにくく、憎しみと悪の本能がすぐに支配してしまいます。

だから神様の愛の中に留まり、神様との関係を硬く結び、敵に報いるのは神様であることを覚えて、聖なる心の習慣を体質化するように努力しなければなりません。

復讐したい気持ちになる時、祈って称えるのが私がすべきことで、敵に復讐したり整理することは、神様の役目であることを忘れてはいけません。

憎しみと復讐する心では神様の国を夢見ることができないし、祝福を受けることもできません。

私たち皆、恨みと怒りを追い払い、その場に神様の憐れみの心を代わりに埋めてほしいと聖霊様の助けを求めることを祈ります。

 

♣父なる神様、罪と過ちで生まれながら御怒りを受けるべき子供だった私を先に愛し、私のために一人子イエス様を送ってくださって罪を許して隔ての壁を打ちこわし、愛ですべての敵になったことを消滅してくださったことに感謝いたします。

このような愛と許しを受けたにもかかわらず、誰かに傷つけ、誰かのせいで傷つけられ、憎しみと怒りに捕らわれて苦しむことが多いです。

自分の中にある憎しみが消えるようにして、その魂のために祈って、憐れむ心を与えてください。

人を見ることなく、罪人になった私を許した十字架の愛を見上げますように。自分にある霊的傲慢、偏見を悔い改め、善をもって悪に勝つ聖なる力を与えてくださり、愛と信仰で勝利するように。

イエス様の御名でお祈りします。アーメン。