聖書黙想“3分の奇跡” 2020年5月5日火曜日

🙆‍♂🙆‍♀2020年5月05日"3分の奇跡"
(一日3分間の御言葉黙想を通してあなたの人生に奇跡を体験してください!)

 

タイトル:あなた方は私にならう者になりなさい。

 

[詩編127:3]
見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。

 

🖤一人の子供が母親と一緒に近所のスーパーで買い物をしていました。その日はお祭りでたくさんの人がいました。

 

ところが、買った物を計算している最中、とても混んでいて忙しかったせいで、職員が品物のバーコードをきちんと撮らずに計算をしてしまいました。

ママはそれを知っていながら、何も言わずに子どもの手を握ってレジを抜け出しました。

 

子供はそんなお母さんの行動がおかしくてお母さんに聞きました。

“お母さん。なぜあれはお金を払わずにそのまま持って行くの?"

 

すると、お母さまは、周りのご機嫌をうかがって、静かに言いました。

"大丈夫。間違いはあちらでしたから。 私たちの過ちではないから大丈夫だよ。”

 

スーパーの駐車場にはパパが車にエンジンをかけて家族たちを待っていました。

荷物を積んで子どもとお母さんが車に乗ると、お父さんは車を出発させました。

ところが、あまり急いだのか、お父さんの運転する車が横に止めてある車にぶつかってしまいました。

しかし、父は何も無かったように、駐車場を急いで抜け出しました。

 

子供がパパに聞きました。

“お父さん。隣の車とぶつかってなかったの?"

 

父は息子に冷ややかに答えました。

"誰も見た人がいないから大丈夫。 そして僕たちも知らなかったんだよ!”

 

やがてその子供が大人になりました。 そして会社に就職しましたが、横領事件を起こして刑務所に収監されてしまいました。

 

親が泣きながら息子に言いました。

"一体どうしてこんなことをしたの? 悪いことをしてはいけないということを君は知らなかったの?”

 

息子が苦笑しながら答えました。

"なんでもばれなければいいんじゃないの。 私もばれないと思ったよ。 私は運が悪くてひっかかっただけだよ。”🌱

 

[第一コリント4:14~16]
私がこう書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、愛する私の子どもとして、さとすためです。たといあなたがたに、キリストにある養育係が一万人あろうとも、父は多くあるはずがありません。この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。ですから、私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。

 

問題児はおらず、問題親だけがいるという言葉が思い浮かばせる例話です。

 

うちの子供たちは親の言葉と行動を見て育ちます。

 

皆さんは子供たちのどのような模範となっていますか。

 

私たちは、どれほど子供たちに信仰の手本となっていますか?

 

子供たちの前で仮面をかぶったまま、子供たちが私に似るのではないかと心配してないですか。

 

教会には連れて行っていますが、試験の時はなんとなく教会よりは塾に行かせてはないですか。

 

交通信号を無視したり、子供たちの前で誰かの悪口を言ったり、主日はゴルフ場へ、聖書を読むよりドラマに夢中になってはいないでしょうか。

 

私の信仰の素顔を知り尽くしている子の前で、恥ずかしい時が多くあります。


使徒パウロは、コリントの聖徒に向かって”この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。”と言い、自らを"師匠ではなく父だ"と言い、"私にならってください。"とおっしゃいました。

 

シュヴァイツァー博士に成功的な子供の教育について3つ説明してほしいとお願いしたら、シュヴァイツァー博士は”一に手本であり、二にも手本、三にも手本だ。"と言いました。

 

私たちは子供たちに信仰の遺産を譲ってあげたいと願ってます。

 

幼い時は教会学校によく通っていた子供が大学生になると教会を離れる理由は何でしょうか。

 

幼い時は意味も知らずにお父さんとお母さんの手をつないで教会に行って、教会に行けば友達とおやつを食べる面白さがあったりでしたが、大学生になって物心がつけばお母さんの信じるイエス様、お父さんが信じる教会が嫌いで冷淡な人になって教会から去っていきます。

 

ご両親の教会と家庭での姿があまりにも違っていて、その偽善的な姿に教会を去ります。

 

教会では役員を担い、牧師とか働きをするリーダーなので、聖さという仮面をかぶってますが、家庭では子供の前で信仰の模範にならず権威と頑固で教会に行くことだけを強要するからです。

 

私たちは子供たちが過ちをすると”教会に行ってる子なのにどうしたの?”"牧師の息子なのになぜそうするの?""長老(勧師)の息子がそうしているとママとパパが顔が立ちません““という言葉で叱ったりします。

すると、子供たちは”私は教会に通う資格もない悪い子だな""教会に通うのにゲーム中毒になったり、悪いことをする私は神様も諦めた子なんだな"という考えでもっと落ち込んでしまうそうです。

 

教会に通っても、私たちは皆完璧な器ではなく、弱い罪人であることを認め、子供たちを愛で理解し、話し合い、許さなければなりません。

 

特に教会の中で最も大きな傷と痛みを抱いて泣いている聖徒が牧師の子供です。

 

牧師の子供らしく、宣教師の子供らしくそれにふさわしい言動が求められ、両親の名誉に迷惑をかけてはならないという負担感、数多くの鋭い視線と関心に負担を感じて傷を受けるということです。

何かが違うだろうという厳しい視線よりは、平凡な子どもで信仰生活を楽にできるように一緒に祈らなければなりません。

 

教会に通う親は多いが、真のクリスチャンの親は珍しいと言います。子供の教育が入試中心の世俗化に変わったからです。

 

キャンパスのクリスチャン比率は5%しかありません。”海外宣教も重要だが、子どもの宣教がもっと重要な時期です。しかし、福音を口で伝えるよりも重要なことは、”福音で生きること”です。

 

福音で生きること。
とても大変なことですが、家庭は神様からの贈り物でありこの世であらかじめ味わう小さな天国なので、仕える親になって福音で生きて行かなければなりません。

 

家庭はキリストが臨在する所、イエス様と共に生きる聖殿です。

 

私たちそれぞれが、我が家庭が常に愛と喜びと賛美と祈り、赦しと疎通が豊かなところになるように。子供たちが親の信仰を見てならって、時がきて信仰の配偶者に会って幸せな家庭を築くことを祈ります。

 

♣️我が家庭の主である父なる神様、神様が与えて下さったこの家庭が小さな天国になって、キリストの中で愛と信仰と夢と希望を経験する家庭になるように。

今まで私は、唇だけで清らかな生活を言い、子どもたちの信仰の手本とならず、物質を偶像として仕える財物の奴隷、学校の成績で判断する世俗的な生活を送ったことを悔い改めます。”

私たちの家庭が神が臨在する聖殿であることを忘れず、子どもたちに真の信仰の遺産を残すように、まず家庭で仕え、聖書の御言葉どおり生きるように、私の言葉と行動が変えられますように。

子供たちに礼拝を強要するよりは、私の人生が供え物となり、いつも賛美と祈りと御言葉が宣言される私の家庭になりますように。

 

イエス様の御名でお祈り捧げます。 アーメン

こちらは韓国で配信されている3分の奇跡を日本語に翻訳したものです。

韓国語のサイトはこちらから

https://band.us/n/a5ae284f0d8aV