聖書黙想“3分の奇跡” 2020年5月2日土曜日

🌱2020年5月02日"3分の奇跡"
(一日3分間の御言葉黙想を通じてあなたの人生に奇跡を体験してください。)

 

✔️毎週土曜日は以前に配信した黙想分の再送となります。

 

3/8/16 愛は感情ではなく意志です。

 

[ヨハネ 13:34~35]
34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
35 もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

 

🖤ある執事さんの実話です。

 

A執事はある日、職場の飲み会で何度もすすめられるお酒を断っていたところ、酔っ払って怒った職場の上司からビンタをされました。

 

妻子もいて、この年になってまで多くの方の面前でビンタをされた事が悔しくてたまりませんでした。

 

家に帰り、数日間会社を無断欠勤して怒りを抑えようとしましたが、結局会社を辞めることを決心しました。しかし辞表を出す前にお祈りをしようと思い、山に登りました。

 

ビンタされた悲しみとともに今まで職場で熱心に働いた代価がこれかと思うと悔しくて悔しくて、、


しかし一方で実際に職場を辞めようとすると漠然とした恐ろしさに襲われ、切に神様に祈り訴えるようになりました。

 

ところが祈ってる最中、思いがけない声を聞きました。

 

“お前はたった頬を殴られたことでそんなに悔しがっているのか。私はみんなに蔑まれ、無視され、苦難を受け、君のために十字架まで背負った。”

 

唾を吐かれ、呪いと悪口、肉が裂かれるまで鞭で打たれながら、全てののプライドも捨て、言い訳もなしに黙々と自ら十字架を背負ってコルゴタの道を歩かれたイエス様。

 

手と足に釘を打たれ、嘲弄してる群衆たちを呪うこともせず、むしろ苦痛の十字架の上でも彼らの罪を許してくれとおっしゃったそのイエス様の声が聞こえました。

 

頬を殴られたことでそれが苦難だと悔しがり、会社まで辞めようとしたのか。私が何故その一人の故に、自分の好きな職場を辞めなければならないのか?

 

A執事はその不思議な御声にキリストの苦難を深く考え、自分のプライドを捨てて涙をもって悔い改めました。

 

そして山を降りて、翌日職場に出勤しました。

 

ところが、会社では無断欠勤した数日間、驚くべきことが起こっていました。

 

彼の頬を殴った上司が非常に困り果てた状況でした。なんと懲戒を受ける危機に陥っていたのです。その上、その上司が会社で処理していた様々なことが問題となっていました。

 

A執事は自分の頬を殴った上司の肩を持ち、その方を助けるために力を尽くしました。 被害を受けた当事者であるA執事が積極的にその方を助けたので、結局会社がくだそうとしていた懲戒処分も問題なく解決されました。

 

お酒を飲まないと酔った勢いで頬を叩いたその上司は、A執事の"理解できない"寛容と愛に感動して福音を受け入れてクリスチャンになりました。

 

彼は現在、職場宣教会のある1支部のリーダーとなり、熱心に人々に福音を伝える伝道者になりました。

 

A執事が自分の頬を殴ったその上司を許し、助けたのはどこから来た力でしょうか?

 

それはキリストの御声を聞き、キリストの十字架の愛を深く悟ったからです。

 

[第一コリント13:4~7]
4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のしたあくを思わず、
6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

 

この御言葉は信じる人も信じない人も理解できる愛の言葉です。 しかし、よく知っていることと実践することとは違います。

 

今日もすべてを耐え忍び、柔和な心をもち、礼儀に反せず、怒らずに、憎いと思えるその人を愛していますか? それともその人の故に今日も罪を犯していますか。

 

パウロは、第一コリント13章4節~7節で、愛の記述を15のことで説明しました。 その中で、愛は寛容であり、すべてを我慢し、すべてに耐えるという、それぞれ似たような意味の言葉ですが、最初と最後が忍耐です。

 

愛はロマンチックに見えますが、しかし愛を持って生きるためには、寛容、忍耐、全てのことに耐え忍ぶ事が必要です。

 

韓国語で”我慢する”と"耐える"で翻訳されたこの言葉は古代ヘブル語では別の単語です。

 

最初の"我慢する"は"マクロデュメオ"で、英語ではpatientですが、これは"人から受けた攻撃と傷に粘り強く耐える"という意味です。

 

"マクロ"は"長い"という意味で、"デュメオ"は"犠牲する"、つまり私が私をいけにえとして捧げなければ決して我慢できないということです。

 

なのに、どうして私が私をいけにえにしてまで、彼のために我慢し続けなければならないのでしょうか。

 

その人を愛の対象として私と関係を結ばせてくれた方が神様だからです。

 

神様がまさにその人を私のそばに置きました。 その人を愛するためにです。そして私たちも今神様の愛を受けているので、私たちは愛を実践するために耐えることができます。

 

2つ目の”我慢する"は"ステゴ"で、英語ではprotects、他人のミスを覆ってあげて、表に出さないとの意味です。

 

[箴言10:12]
憎しみは争いを引き起こし、愛はすべてのそむきの罪をおおう。

 

[箴言17:9]
そむきの罪をおおう者は、愛を追い求める者。同じことをくり返して言う者は、親しい友を離れさせる。

 

最後の'耐える'という言葉は'フポメノ'で英語はperseveres。相手によって生じた不幸の”下にそのまま留まっている、そこから逃げない"という意味です。

 

韓国のことわざに、主人がお腹がいっぱいになると、奴隷の空腹事情はわからないそうです。 実は、お腹が空いた人の事情を知ることは難しいことなのです。英語で理解するという言葉をunderstandという理由は、私が相手の立場に立ってからこそやっと理解できるという意味でしょう。

 

このように '愛'とは男女の間のドキドキする感情だけではなく、絶えず耐え忍ぼうとする意志です。

 

愛は寛容で忍ぶ動詞です。神は愛の源で、その神様が寛容を持って忍ばれたのです。

 

しかし、サタンは今日も耐えられないようにさせ、その人を愛せないように憎しみの感情を育てさせます。単細胞的、癌細胞的な愛をさせます。

 

我々が全てのことを我慢して覆ってあげることは、相手の弱さや醜さ、過ちがないためではなく、相手の過ちに支配されず、その人が正しく立つように手助けし、祈ってあげるためです。

 

愛を表現し合い、愛の姿で忍耐し合い、愛を実践する世の光のような役割を担うクリスチャンとなれるように祈ります。

 

[第一ヨハネ4:18]
愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。

 

♣️愛の根源である父なる神様、愛は寛容であり、耐え忍ぶという動詞であることをもう一度悟らせてくださって感謝します。

 

私が結ぶ人間関係が偏狭ではないか振り返ってみながら、"見た目ではなく心の中心を、判断ではなく分別を、無視ではなく理解と配慮をもって、すべての人を尊ぶ者にならせてください。

 

私の心の中にある醜さと偏見を捨てて、忍耐と寛容と思いやりの心で他人を愛するようにし、自分と違うことを認めて彼らの多様性を尊重し、その人の弱さとミスに対して裁いたり批判するより理解し、愛し、祈るように導いてください。

 

私たちを救ってくださったイエス様の御名によってお祈りを捧げます。 アーメン

 

こちらは韓国で配信されている3分の奇跡を日本語に翻訳したものです。

韓国語のサイトはこちらから

https://band.us/n/a5ae284f0d8aV