聖書黙想“3分の奇跡” 2020年9月16日水曜日

🥇2020年9月16日「3分の奇跡」
(1日3分の御言葉黙想を通してあなたの人生に奇跡を体験してください!)

 

四代に続く信仰を立てあげる聖書暗唱72聖句
F5. 完全な人格: 意志の完全さ1

 

[ローマ14:7~8]
私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。

 

タイトル: 誰のために生き、何のために死にますか。

 

🍀必死則生、必死即死という言葉があります。
これは韓国人が最も尊敬する人物である李舜臣将軍が明朗海戦の前に「死のうとすれば生き、生きようとすれば死ぬ」と兵士たちに言った言葉です。
死ぬ覚悟で戦争に臨んだので、明朗海戦で相手の船133隻を12隻の船で勝利することができたのです。

 

皆さんは誰かのために死ぬ覚悟で生きていらっしゃいますか。


神様のためにいかなる非難も甘受して名誉も放棄したスコットランドのエリック·リデルの話をお聞かせします。
https:/youtu.be78BKDd4h8Uc

 

❤1924年のオリンピック競技がフランス·パリで開かれました。
ケンブリッジ大学に通っていたエリック·リデルは、イギリス国民の期待を一身に受けて100メートル陸上代表選手に選ばれました。
自分が国家代表選手になるなんて…。エリックは本当に夢のようでした。

 

彼はオリンピックに参加するために数ヶ月の間に猛訓練をしました。
スポーツ記者たちは彼を100m競走の優勝候補に挙げました。
ところが、試合の日程が発表された時、問題が生じました。日曜日に試合があったのです。

 

祖国と自分の名誉のためには競技に出場しなければならないが、信仰者の良心では到底平日に走ることが許されなかったです。
エリックは静かな場所を探して、祈りで時間を過ごしました。エリックが立ち上がったとき、彼の顔は何かを決心したように見えました。

主日に運動場を走ることは決して神様を喜ばせることにはならないと信じていた彼は、競技をあきらめることに決心したのです。

 

彼が出場できないというニュースは新聞の1面を飾り、すべての新聞は彼を国の名誉を汚す売国奴だとして、辛らつに非難しました。
英国チームの総監督も話にならないと大声を出しました。
エリックは、落ち着いた声で答えました。
「主日には走れません。」
「私は母国イギリスを愛していますが、神様をもっと愛しています。」

 

スコットランドオリンピック委員会は「祖国のための犠牲は義理のある行動であり、犠牲のない忠節は価値のないもの」だと彼を非難しました。
するとエリックは「妥協は悪魔の言語」と最後まで出場を拒否しました。

 

有名だった英雄は、もういたずらっ子の身となり、リデルのファンたちも失望し、愚かだと罵りましたが、彼の心は自分の名誉よりも神様を選択したという喜びでいっぱいでした。
ところが、エリックが偶然に掲示板を見て400メートル競走が日曜日以外の別の日に開かれるのを発見しました。

 

400メートルは短距離選手だったエリックのメイン種目ではなかったが、エリックは監督に訪ね、400メートル競走で走れるようにしてくださいと頼みました。
今までの慣例上なかったことでしたが、監督は許してくれました。
エリックはすべての予選試合を通過して、ついに準決勝を戦い、ついに決勝戦に臨むことになりました。 

 

レースが始まる前、彼のチームマッサージ担当者がエリックにメモを渡しました。
そのメモには、「わたしを尊ぶ者を尊ぶ。」という第一サムエル2章30節の御言葉が書かれていました。

 

エリックは決勝戦で走る時、この御言葉と共に走りました。ついに出発を知らせる信号弾が鳴り、エリックは走りました。
人々はその日のエリックの走る姿が火の電車が走っているように凄かったと言いました。
ついにエリックは金メダルを獲得し、彼が達成した世界新記録47.6秒は16年間破られませんでした。エリックのことをよく知っている一人がこう書きました。

 

「エリックが予想外に400メートル競走で金メダルを獲得したとき、その国は彼の信仰の下にひざまずいた。」

 

エリックは大学を終えた後、自分のすべての富と名誉を捨てて中国宣教師に送られ、一生神様の仕事をしてこの世を去りました。


この話は映画「炎の電車」で作られて1981年アカデミー賞の主要部門を席巻しました。

 

皆さんは数多くの非難を浴びることを承知の上で、主日はプレーできないという自分の信仰を守るためにオリンピック競技を拒否したエリック·リデルの行動についてどう思いますか?

 

自分にとってもっと大切なことのために妥協を断ったエリック·リデルのように、私たちも生きていけるのでしょうか?

 

神様は神様の国のために私が持っている小さなものを放棄すれば、もっと大きいもので埋めてくださる方です。
神様は自分を尊ぶ者を尊ばれる方です。

 

使徒パウロは、ローマで14章7節~8節においてこのように宣言しました。
「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」

 

私たちも、パウロのように生きても、主のために生き、死んでも、主のために死ぬことができるでしょうか?

 

クリスチャンは私が生きるのではなく、ただ私の中におられるキリストが生きるのです。
だから、私の義と自我、私の高慢を殺せば、私の周りが生き、神様に栄光を帰することができます。

 

神様が喜ばれることなら、私が握っているものも諦めて下ろすことができます。神様の栄光のためにはあらゆる非難と迫害を受けることもあります。
私たちのすべての都合と状況を察する主は、私たちの苦労と愛に背を向けないので、神様の時になれば、30倍、60倍、100倍で満たしてくださるでしょう。

 

幸せなイエス様の人は、イエス·キリストと共に生き、信仰の中に生き、十字架だけを誇る人です。
幸せなイエス様の人とは、食べるにせよ飲むにせよ、何をするにせよ、神様の栄光のために生きる人であり、神様にのみ忠誠を尽くす人であり、神様に命を捧げる人です。

 

私たち皆、神様を喜ばせる確かな目的で死ぬか、神様のために生きることを祈ります。 

 

♣父なる天の神様、御言葉と祈りを通してイエス様に会う時間が一番幸せで嬉しい時間になりますように。

いかなる状況と苦難の中でも、御言葉の前に従順で神様に栄光を帰する人生を送れますように。

神様が喜ばれることなら、これまでしっかり握っていたもの、世の中と妥協したもの、自分だけのために生きてきたものを果敢に手放し、神様の栄光のために生きる者となりますように。

 

イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。